2023年2月5日礼拝

イエスを知ること   ヨハネの福音書14章7~11節

イエスとは誰か イエスはこれから弟子たちのもとを去って行かれます。けれどもそれはもっとすばらしいことが起こるためです。イエスの十字架と復活によって、すべての人に天の父への道が開かれるからです。続いて、イエスが弟子たちに示されたことは、あらためて、イエスとは誰なのかということです。「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」イエスは言われました。わたしを見た者は父を見たのです。」(7弟子たちはここでも、イエスのことばを文字通りに理解しようとします。「主よ、私たちに父を見せてください。」8) 天の父をこの目で見ること、それは旧約の預言者たちにとってもできなかったことでした。モーセは、神の栄光を見ることを求めましたが、許されたのは神の栄光を部分的に見ることだけです(出エジプト33:18-23)。もちろん、ピリポの思いは純粋です。もっとたしかにこの方を信じたい。けれども、ピリポはまだ気づいていません。それはイエスを知ることは、神の栄光を目で見ることよりももっとすばらしいことだということです。「イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」(9弟子たちは誰よりもイエスのことばを聞き、イエスの行われた奇跡を見てきました。それでもまだピリポも他の弟子たちもイエスがまだ誰なのかをはっきりとは知らないのです。イエスとは誰でしょうか。

 

 

イエスと父とはひとつ 人間が神を知るとは、神が存在することを知ることではありません。聖書は神の存在の有無を議論しません。神の存在は前提です。聖書の中には、人間が神を知ることの4つのイメージがあるといいますJ.I.パッカー『神を知るということ』)。それは子が父を、妻が夫を、しもべが王を、羊が羊飼いを知るイメージです。共通してあるのは愛、守り、助けです。私たちを知っていてくださり、愛してくださり、守ってくださる方が私たちの神です。つまり、神を知るとは、私を知り、私を愛し、私を守ってくださる方を知るということです。このお方を私たちはイエス・キリストを通して、もっともはっきりと、確かに知ることができるのです。イエスは天の父とひとつだからです。「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。」 もしイエスがおられなければ父を知ることも父に近づくこともできなかった。イエスは父に近づく道であるだけでなく、父と一つである神ご自身です。そしてイエスを知ることは父を知ることは知識や理解だけではなく、そこに交わりがあるということです。まずイエスが私たちを知っていてくださって、十字架と復活によってご自身との交わりに招き入れてくださった。イエスを信じるとは神と永遠の交わりに入ることです。そしてこの交わりは私たちがどんな時もこの方に信頼することを通して深められていく交わりなのです。