2022年10月9日礼拝

私たちが神の民とされたのは  エズラ記8章1~23節

強制ではなく ・8章にあるのはエズラとともにバビロンからエルサレムに戻った人たちの部族ごとの名簿です。成人男性だけで約1500人、女性や子どもも入れれば3000人以上ですが、キュロス王の時代の帰還民に比べれば10分の1です。つまりエルサレムに帰還は強制ではなく、むしろこのままバビロンに残る方がいいと考えた人の方が多かったのです。 ・エズラと立ち上がった人々を突き動かしたのは主への信仰でした。信仰を強制することはできません。信仰は神が与えてくださるものだからです。バビロン捕囚は強制的な移住でした。神の民の罪に対する神のさばきだったからです。いっぽう、エルサレムに戻ることはユダヤ人が捕らわれの民から自由の民に戻ることです。 ・私たちはなぜクリスチャンになったのでしょうか。イエス・キリストは十字架の死と死からのよみがえりによって、私たちを罪の奴隷から自由にしてくださいました。信仰は義務でも強制でもなく、神が与えてくださった恵みに対する応答です。

 

神の選びによって ・帰還民の最初の顔合わせが行われました。「私はアハワに流れる川のほとりに彼らを集め、私たちはそこに三日間宿営した。私はそこに民と祭司たちを確認したが、レビ人は見つけることができなかった」(15)レビ人は神殿の奉仕にあたる人々ですが、バビロンのレビ人たちは、エルサレムよりもバビロンに残る方を選んだということです。エズラは部族のリーダーたちを集め、彼らを「カシフヤ地方のかしらイド」のところに遣わします。そこはレビ人を訓練する塾のようなところだったと思われます。ここでもすべてのレビ人を強制的に連れて行くことは行われません。エルサレムに帰って神殿でレビ人として神殿の奉仕をしよう。この呼びかけに応えて立ち上がったレビ人は二つの家族からあわせて38人です。彼らはレビ人としての神の選びによって召し出された人々です。「私たちの神の恵みの御手が私たちの上にあったので」(18)つまり神がエズラと民を助けてくださったから、神の召しに応えるレビ人たちが起こされたのです。私たちはなぜ今ここにいるのでしょうか。私の決心以前に、神の選びによって、イエス・キリストを通して召し出されたからです。

 

 

ただ主に頼れ ・これから旅がはじまります。エズラはペルシアの王に信頼されていました。でもエズラはペルシアの軍隊に守ってもらうことをあえて辞退しました。それには理由がありました。「実際、私たちは王に、『私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りは、神を捨てるすべての者の上に下る』と言っていたのである」(22) イスラエルの民は力ある主を証しするであり、彼らに必要だったのはただ主だけに頼ることでした。必要なことは祈りです。「そのため私たちはこのことのために断食して、自分たちの神に願い求めた。すると、神は私たちの願いを聞き入れてくださった」(23)祈りとは主の助けなくしては前に進めないことを認め、主の前にへりくだることです。 ・私たちが神の民とされたのは強制や義務によるのではありません。信仰は神の選びに基づく恵みに対する応答です。そしてただ主だけに頼る経験を通して、私たちは神の民の本来の姿に変えられていくのです。