2022年10月23日礼拝

みこころが行われますように  マタイの福音書6章9~13

みこころが行われていない現実 ・「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」10
「みこころ」とは神がこうしたい、こうしようと思うことです。神がしようとされることはすべてよいことです。それがみこころです。神のみこころは聖書によって私たちに示されています。この世界を造られたこと、私たちを造られたこともすべてみこころであり、すべてよいことです。私たち人間は神のみこころによって、神のみこころを行うために造られました。私たちにとってみこころは聖書に示されています。神のみこころは完全です。でも、私たちの中には納得できない思いがあります。それなら、この世界は今どうなっているのか、天は神の住まいです。天は目には見えません。天はみこころが完全に行われるところです。いっぽう、地とはこの世界です。地ではみこころが完全には行われていません。戦争、飢餓、環境破壊。これらは神のみこころではありません。人間が神から離れ、神のみこころを求めない罪の結果です。

 

みこころを行われるイエス ・イエスはみこころが完全に行われている天から、みこころが完全には行われていないこの地上に来てくださいました。この地上で神のみこころを行うためです(ヨハネ6:38-40)。天の父のみこころは、罪によって神から離れていった私たちを罪と死から救い、神の子どもとすること、私たちが神のみこころを行う本来の生き方に変えられることです。そのためにイエスがしてくださったことが十字架で死ぬことでした。イエスは十字架前夜ゲツセマネで、神のみこころの邪魔をする悪魔の誘惑と戦われました。十字架で死ぬことは私たちの罪に対する神の怒りを一人で背負われることです。それは耐え難いことです。けれどもイエスが十字架で死なれなかったとしたら、私たちが罪と死から救われる道はないのです。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:42イエスはいやいやではなく、進んで十字架への道を進まれました。イエスは私たちを救うために、みこころが行われるよう祈り、みこころに完全に従われました。

 

 

祈ることは変えられること ・私たちは今日も神のみこころが行われように祈ります。みこころが行われるように祈ることは、私自身が神のみこころに従うことができるように祈ることです。祈ることは変えられることです。神のみこころが私自身の思いとなるように。古い自分のままでは神のみこころがわかりません。そして私たちは自分の力では変われません。けれども神によって変えていただくことができるのです(ローマ122)イエスの十字架と復活、天から聖霊を注いでくださったことは、私たちが変えられるためです。みこころを求め、みこころを知ることができるように変えられるためです。だから私たちは聖霊の助けをいただきながらみこころを求めます。神のみこころは、私たちが神の子どもとして成長してイエスのように変えられていくことです。みこころが行われますように。私たちは生涯そう祈り続けます。生涯を通して変えられ続けるからです。神のみこころが私の思いとなるように。神のみこころが私を通して行われるように。一歩ずつ変えられ続けていくのです。