2020年12月13日礼拝

救いの喜び         イザヤ書61章1~3節

癒しと慰めの喜び ・救い主イエス・キリストが私たちにくださる喜びは救いの喜びです。「神である主の霊がわたしの上にある。」1)「わたし」とは神が遣わされたメシア(キリスト)です。なぜなら、主イエスご自身が、故郷ナザレの会堂で、この箇所をご自身のこととして説き明かしてくださったからです(ルカ417-18)救い主イエス・キリストは聖霊によってマリアのお腹に宿り、ヨルダン川で天の父から聖霊を受けて救い主としての働きを始められました。イエス・キリストは天の父から聖霊を注がれた神の国の王です。それはキリストが私たちの住む世界に遣わされるためでした。「貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。」1キリストは貧しい人、心の傷ついた人、嘆き悲しむ人に良い知らせを伝え、癒やしを与えるために遣わされました。私たちが癒しと回復を必要としているのはまず神との関係です。イエスは神でありながら、人として貧しさ、嘆き悲しみ、心に傷も味わわれましたが、それらに完全に押しつぶされてしまうことはありませんでした。天の父はどんなときにも癒し、慰め、喜びを与えてくださる方だからです。私たちの味わう貧しさ、心の傷、嘆き悲しみ、そこにイエスに出会う場所があるのです。

 

解放の喜び ・「捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。」1-2)イエスが来られたのは、バビロンよりもローマ帝国よりもさらに大きな力から私たちを「解放」してくださるためでした。それは私たちを神から引き離す罪の力です。罪の力に支配される古い自分から私たちは自力で抜け出すことができません。イエスが十字架で死なれ、よみがえってくださったのは、私たちを罪の力、罪の結果である死の力から解放してくださるためでした。私たちは罪の負債を背負った「囚人」つまり罪の奴隷でした。永遠の死によって支払わなければならない罪の負債を、イエスは十字架で背負い、罪の負債を帳消しにしてくださいました。キリストにこそ、罪からの解放という本当の自由があるのです。

 

 

造り変えられる喜び ・「シオンの嘆き悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために。彼らは、義の樫の木、栄光を現す、主の植木と呼ばれる。」3私たちは神から離れた罪人でした。根がしっかり地面に根ざしていない木は枯れてしまいます。同じように、神に根ざしていない生き方には本当の喜びがありませんでした。けれども、壊れていた私たちと神との関係を神の側から回復してくださいました。私のために十字架に架かり、よみがえられたキリストに根ざすなら、私たちは変わることができます。神が造られた本来の私へと変えられていくのです。キリストの愛に根ざし、神に愛されている人として生きるなら、嘆きや悲しみの中にも慰めと喜びがあります。そして神の子どもとしての自分を大切に思えるように、神と人とを愛することを、神のすばらしさをたたえる生き方を求めるように、私たちは変えられていくことができるのです。