2020年9月27日礼拝

神が私たちとともに  マタイの福音書1章18~25節

救いは神のわざ ・救い主キリストは「聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ」ました。この出来事は私たちにとってどのような意味を持つのでしょうか。神のひとり子はなぜ私たちとは違う特別な方法でお生まれになったのでしょうか。救いは神のわざだからです。救いは人の働きではなく、父と子と聖霊の神の働きです。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(20-21)「イエス」(ヘブル語ではヨシュア)は「主は救い」という意味です。ヨシュアはイスラエルを荒野から約束の地に導くリーダーでした。イエスは私たちを罪から救い、神の国に導く救い主です。私たちはひとりの例外もなく、神から離れ、自分勝手に生きようとする罪の奴隷でした。誰もそのような自分を罪から救うことはできません。けれどもただひとり正しい方、罪のない方が私たちを罪から救うために人となられ、私たちの身代わりに十字架で死なれました。主イエスの十字架と復活によって救いの道がすべての人に開かれたのです。救いは父と子と聖霊の神のわざです。聖霊の働きがなければ誰も救い主である神を信じることはできません。聖霊の働きによって、私たちは神の子どもとして「新しく生まれ」(ヨハネ3:3)ることができるのです。

 

インマヌエル ・「このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。『見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』それは、訳すと『神が私たちとともにおられる』という意味である。」2223)主イエス・キリストが聖霊によって宿り、おとめマリアからお生まれになったことは、預言者イザヤを通して主が約束してくださったことの実現でした(イザヤ7:14)。しかも、イザヤ書だけではなく、「インマヌエル」は旧約聖書全体を貫くテーマです。「イエス・キリストの系図」(マタイ1:117)は人間の罪の歴史でもありますが、それでも神は、ご自身の民とともにおられるインマヌエルの神であることをやめることはありませんでした。そして神は私たちにとっても、イエス・キリストを通してインマヌエルの神です。人として生まれ、十字架で私たちの身代わりの死を遂げ、死からよみがえられた主イエス・キリストは、弟子たちに「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28:20)と約束して天に上げられました。それは主イエス・キリストが天から注いでくださる聖霊によって、私たちの中に住んでくださるからです「ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。」2425)神は今私たちとともにおられます。私たちに必要なことは、ヨセフとマリアがそうであったように、神に信頼して、みことばに聞き従うことです。救いは父と子と聖霊の神のわざです。そして私たちが神の子ども、キリストの弟子としてみことばに聞き従うとき、救いは私たちを通してこの世界に広がるのです。