2021年10月17日礼拝

神は私の避け所     ヨシュア記 20章

逃れの町とは何か 20章で語られるのは「逃れの町」についてです。「イスラエルの子らに告げよ。『わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、逃れの町を定めよ。意図せずに誤って人を打ち殺してしまった殺人者が、そこに逃げ込むためである。血の復讐をする者から逃れる場所とせよ。」(1-3)「逃れの町」が定められたのは、誤って人を殺してしまった人を守るためであると同時に、復讐の連鎖を断ち切るためでもありました。「人がこれらの町の一つに逃げ込む場合、その人はその町の門の入り口に立ち、その町の長老たちに聞こえるようにその事情を述べよ。彼らは自分たちの町に彼を受け入れ、彼に場所を与える。そして彼は彼らとともに住む。」4)逃れてきた人はやがてその町で裁判を受け、行為が意図しないものであったと認められれば、彼のいのちは復讐から守られることになります。逃れてきた人を守るのは逃れの町の人々です。逃れの町が民への割り当て地全体に点在しています(7-8)。どこか遠い場所ではなくて、どの地域にもすぐに逃げ込むことができる町があったということです。「寄留している者」9)つまり異国人にも逃れの町は適用されました。逃れの町を定めたのは人ではなく主である神です。聖書の中には神が「避け所」「隠れ場」と言い表されている箇所がいくつもあります(詩篇91:1-2等)。危険や恐れの中にあるとき逃れるところが必要です。そして神が聖書を通して語っておられることは、逃れる場所とは力ある神ご自身であるということです。神は私たちが苦しむとき、逃れる場所を必要としているとき、隠れ場、避け所となってくださる方です。イスラエルの民に逃れの町を設けてくださった主は、私たちが危険や恐れの中にあるとき、わたしのところに身を避けなさい。わたしがあなたを恐怖や災いから守るからと、主は今日も語ってくださるのです。

 

逃れの町と私たち ・「その人は会衆の前に立ってさばきを受けるまで、あるいはその時の大祭司が死ぬまでその町に住む。その後で、殺人者は自分の町、自分の家、自分が逃げ出した町に帰って行くことができる。』」6)。大祭司はイスラエルの民の代表です。大祭司は民を代表して、人々の罪の赦しのために神に動物の犠牲をささげて祈る存在です。逃れた人は大祭司が亡くなった後のみ、もとの場所に戻ることができます。大祭司の死がお金よりも大きな贖いとなって、その人を自由にすることができるということです。 ・私たちの大祭司であるイエス・キリストは、私たちの意図しない罪だけではなく、意図した罪も十字架によって背負って死なれました。イエスの十字架でささげられたいのちによって、私たちは罪の奴隷から解放され、自由にされました。高価ないのちが私のためにささげられたのです。私たちは大祭司イエスのいのちによって赦され、自由を与えられ、神のもとに帰ることができました。神は私たちの避けどころとなり、恐れに支配されるのではなく、神に信頼して生きる自由を私たちに与えてくださいました。キリストに結ばれている者として、私たちもこの世界における避け所となるためです。キリストを通して、避け所である神を知ったものとして、キリストこそ私たちの避け所であり、力ある神であると告げ知らせることが、神の民である教会に与えられた使命なのです。