2020年8月23日礼拝

私たちの主、イエス・キリスト  ピリピ人への手紙2章6~11節

イエスはキリスト ・「イエス・キリスト」は苗字と名前ではありません。キリストとは、イエスが私たちのためにしてくださったお働きを表す呼び名です。「キリスト」の元々の意味は「油を注がれた者」、油注ぎは神から特別な力の注ぎを表す即位の儀式です。つまりキリストとは、<神から選ばれた特別な王>という意味なのです。神が選んでくださった特別な王、それはイエスです。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。」6-7キリストは神ご自身であるのに、私たちと同じ人間となられました。みんなにいうことを聞かせる主人のようにではなく、みんなに仕えるしもべとしてこの世に来られました「人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」7-8なぜこの世界と私たちを救う王として来られた方が、当時のローマ帝国の一番残酷で惨めな死刑の方法である十字架で死ななければならなかったのでしょうか。私たちの中に、イエスはキリストであると認めようとしない心があるからです。私たちの中には、神を王の座から引きずりおろして、自分が王になろうとする心、自分のお金、欲望、名誉やプライドを王とする心があります。これが私たちの罪です。神は正しい方です。罪に対して聖なる怒りを燃やされ、罪を正しくさばかれます。けれども神は私たちが受けるべき怒りとさばきを、私たちではなく、イエスに注がれました。イエスは私たちの身代わりに十字架の死によって神の怒りと背負われました。これがキリストが最後まで従われた道でした。

 

 

イエスは私たちの主 ・けれども、父である神のご計画は、イエスを死んだままにしておく計画ではありませんでした。十字架の道は復活への道でした。父である神はイエスを死からよみがえらせ、天に高く引き上げて王の座に着かせてくださったのです。「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。」9)すべてにまさる名、それは「主」です。主とは神ご自身を表す神の名前です。元々の意味は、「わたしはある」です。旧約の時代、神はイスラエルの民にご自分を「わたしはある」という名で示されました(出エジプト3:13-15)。イスラエルの民は「わたしはある」という神の名を「主」と呼ぶようになりました。イエス・キリストは主です。それは、天にあげられたイエスはこの世界を造られた神ご自身であるということです。「それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」(10-11)神が人となり、十字架で死なれ、死からよみがえられたのは、私たちが神を知り、神とともに生きる人間本来の生き方を取り戻すため、そしてこの世界が神によって造られた本来の姿を取り戻すためです。私たちに必要なことはイエスを主と信じ告白すること、イエスを主として生きることです。イエスはすべてのものの王、すべてのものの主です。私たち一人一人の人生も、働くことも学ぶことも人と関わることも、すべては主のものです。だから神にささげて、神とともに生きる人生が一番祝福された人生なのです。