2023年3月19日礼拝

キリストが私のうちに   ガラテヤ人への手紙2章19~20節

古い私は死んだ ・使徒パウロはこの手紙を、洗礼を受けてすでにクリスチャンになった教会の人たちに向けて書いています。ガラテヤの教会には、洗礼を受けてクリスチャンになったけれども、そのことがどういうことなのかわからなくなっていた人たちがいたからです。パウロはここで自身の個人的な経験を語ります。パウロもまた、イエスを信じて洗礼を受け、クリスチャンになった一人だからです。「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。」(20) クリスチャンになる以前のパウロにとって、イエスの十字架はパウロの外にありました。自分には関係のないことだと思っていました。それだけではなく、教会を憎み、クリスチャンを迫害する人でした。パウロはそれまでは、聖書の教えを守って生きる人だけが神に認めていただける、救われると考えていましたた。だから聖書の教えを堅く守って生きていました。けれどもパウロはイエスに出会って気づきました。それは聖書の教えを人間の力や努力だけで完璧に守ることなどだれにもできないのだということです。パウロはとても優秀な人、自分の力で生きられる、自分の力で神に認めてもらえる生き方ができると思っていた人です。そんなパウロがイエスによって変えられました。クリスチャンを迫害する人がクリスチャンになり、イエスを憎む人が、イエスを愛し、イエスを伝える人になりました。自分には関係がないと思っていたイエス・キリストの十字架が私のためだったと信じることができるようになったのです。 ・私たちの中にもパウロのような古い生き方があります。クリスチャンになるとは、自分の力で生き、自分の力で神と人に認めてもらおうとする古い生き方に対して死ぬことです。洗礼を受けてクリスチャンになることは大きな決断、大きな出来事です。でも一番大きな決断、大きな出来事は私ではなく、神が私を愛し救おうとなさった決断、イエス・キリストの十字架と復活という出来事です。

 

生きているのはキリスト ・「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」(20)もちろん、パウロがパウロでなくなるわけではありません。同じように、クリスチャンになっても、その人は同じその人です。でも生き方の向きが変わります。今までは自分の道を自分や自分の時代の目標に向かって生きていました。でもイエスによって、イエスが導いてくださる道があることに気づくのです。 ・クリスチャンにとって聖書のことばは神のことばであり、生きる道しるべです。けれども、必要なことは自分の力で神のことばに従うことではありません。その生き方はイエスとともに十字架につけられて死んだのです。大事なのはイエスとともに生きること。私を愛してくださるイエスとともに生きること、私のためにご自分のいのちをささげてくださったイエスとともに生きることです。イエスが私のうちに住んでおられるから、生きる力をくださるから、だからイエスとともに生きる中に、神のことばに従って生きる生き方があるのです。