2020年12月27日礼拝

 主にあって喜ぶ       ピリピ人への手紙4章4~7節

主にあって喜ぶ ・今年は多くの楽しみが失われたように思えた一年だったかもしれません。けれども、それでも決して消えない喜びがあります。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(4使徒パウロはローマで鎖につながれながら、ピリピの教会に向けて「喜びなさい」と何度も呼びかけます。パウロが強いられているのは、鎖につながれ、監視の兵隊がつけられ、不自由で何の楽しみもないような生活です。パウロがつながれている鎖のように、私たちを縛り付け喜びを奪い去ろうとするこの世の力は働いています。です。けれども、イエスは十字架と復活によって、私たちを縛り付けようとする罪と死の力に勝利されました。パウロはイエス・キリストにかたく結びあわされています。喜びは何をしているか以前に、何に結びあわされているかにあるのです。どんなときも消えることがない喜びは、主イエス・キリストに結ばれている喜びです。主イエスに結びあわされているなら、どんなときもキリストの愛と恵みから引き離されることはないからです。

 

主にあって喜ぶ生き方―寛容  ・「あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。」(5)初代教会の時代、ローマ帝国の中でクリスチャンはずっと少数派でした。ピリピのクリスチャンたちも、クリスチャンゆえの不当な扱い、理不尽な扱いを受けることもありました。そのような中でも広い心を示すようにとパウロは勧めます。これはとても難しいことのように思えます。理不尽なことや不当な扱いだけを見れば、目の前のことがすべてのように思えます。けれども、主イエスが再び来られるときが近づいていることを思うとき、物事の見方が変わってきます。「寛容」は御霊が結ばせてくださる実です(ガラテヤ5:22)。正義や権利を主張することがどうしても必要なこともありますが、そのときでさえ忘れてはいけないことは、最終的な正義は神にあるということです。キリストが来られる。そしてすべてを正しく裁かれる。だから目の前のことがすべてではないのです。私はキリストに結ばれている。主に希望をおくこと、主の正義にゆだねることが求められています。

 

 

喜んで生きるために-祈り ・必要なことは祈りです。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」(6)祈りがなければすぐに寛容さを失い、思い煩いに心が支配されてしまいます。必要なことは「感謝をもって」主に知っていただく。願いを叶えてもらうこと以上に、願いを知っていただくことが大事なのです。「そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(7頭で考え思い悩むことだけ不安は消えません。けれども、すべてを知っておられる方が私に耳を傾けてくださる。そこにはすべての理解を超えた平安があります。だから祈ることには喜びがあるのです。神との交わりの喜びです。神は私の心の願いを知ってくださり、心と思いを不安や恐れから守ってくださる方です。私たちが導かれているのは、どんなときも主にある喜びによって生かされ、喜びを表す生き方なのです。