2020年10月11日礼拝

 主とともに、主の前で         ヨシュア記7章1~12節

主とともに ・イスラエルの民は、エリコでの戦いに勝利しました。彼らの力が強かったからではなく、主がともにいてくださったからです。「しかし、イスラエルの子らは聖絶の物のことで主の信頼を裏切った。ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶の物の一部を取った。それで、主の怒りがイスラエルの子らに向かって燃え上がった。」(1) ヨシュアはもう次の戦いへと進もうとしています。そして二人の偵察をアイに派遣します。彼らは主の導きを求めたのかどうか、記されているのは人としての判断だけです。アイから戻ってきた二人のスパイは、アイはあまり手をかけなくとも勝てる相手だと判断しました。ところが、イスラエルの民はアイの逆襲を受け、民は惨めに逃げ帰ってきます。彼らはアイぐらいの町なら自分たちの力で勝てると思いました。私たちには自分の力だけでできることなど何もないのです。大きな困難があったときだけ主の力が必要なのではありません。けれども、物事がうまく行くと、主に頼ること、主の導きを求めることを忘れます。そして自分の判断だけで動こうとします。小さなことにも主の導きを求め、助けを求めながら歩むことが、主とともに歩むことなのです。

 

ただ主に頼る ・今やイスラエルの民はふるえおののいて、すっかり自信をなくしてしまっています。このときリーダーのヨシュアがしたことは、ただただこの出来事を悲しみ、主に叫ぶことでした。「ああ、神、主よ。あなたはどうして、この民にヨルダン川をあえて渡らせ、私たちをアモリ人の手に渡して滅ぼそうとされるのですか。」(7)ヨシュアがリーダーであるのは彼が主に頼る人だからです。ヨシュアの叫びは、荒野のイスラエルの民の不平とは似て非なるものです。「カナン人やこの地の住民がみな、これを聞いて私たちを攻め囲み、私たちの名を地から断ってしまうでしょう。あなたは、あなたの大いなる御名のために何をなさるのですか。」(9)ヨシュアが求めていたのは自分の栄光ではなく主の栄光でした。主の栄光を求め、ともにおられる主に頼るヨシュアの姿がここにあります。

 

 

主の前で ・主はヨシュアの叫びに答えてくださいました。「立て。なぜ、あなたはひれ伏しているのか。イスラエルは罪ある者となった。彼らはわたしが命じたわたしの契約を破った。聖絶の物の一部を取り、盗み、欺いて、それを自分のものの中に入れることまでした。」(11) これはアカンひとりの問題ではありません。神の民は主の賜物と祝福を分け合うことができると同時に、ひとりの罪は民全体に影響します。私たちひとりひとりの日々の歩みは教会全体に影響するのです。アカンの隠れた罪によって、イスラエルは主の信頼を裏切りました。けれども、希望は残されていました。それはイスラエルの民が「聖絶の物を滅ぼし尽くしてしま」(12)うことです。私たちのすべては主のものです。神が神の民に求めておられることは、成功よりも、主とともに主の前で生きる、神との親しい関係です。主は私たちを神の子どもとしてくださいました。主は私たちをご自身の子どもとして愛してくださいます。だからいつも主とともに、主の前で誠実に生きることが求められているのです。