2022年8月21日礼拝

祝福の道  詩篇92篇

安息日は主に感謝と賛美をささげよう 詩篇92は「安息日のための歌」です。「主に感謝することは 良いことです。/いと高き方よ あなたの御名をほめ歌うことは。」(1)「良い」は喜ばしいことを意味します。それはまず神にとってです。つまり礼拝において感謝をささげるのは、主が喜んでくださるからです。礼拝は神と人との出会いの出来事です。人は神の前に罪ある存在ですから、礼拝が神に喜ばれるものとなるためには、旧約のイスラエルの民が神の前にでるためには、家畜のいのちがささげられる必要がありました。私たちが今主を礼拝することができるのは、イエス・キリストがご自身のいのちをささげてくださったからです。私たちもはイエス・キリストを通して、礼拝において神に感謝と賛美をささげます。主が喜んでくださるからです。「朝に あなたの恵みを/夜ごとに あなたの真実を告げることは。」2)神の愛は「恵み」(約束に基づいた愛)であり「真実」(変わらずに愛し続ける愛)です。神は愛ゆえに、神の民に救いの「みわざ」(5)を行われます。イスラエルの民の感謝と賛美は惜しみなく示された神の愛への応答でした。私たちに示された神の愛は救い主イエス・キリスト、示されたみわざは主の十字架と復活です。私たちの感謝と賛美は神の愛とみわざへの応答です。

 

安息日は正しい道を選ぶ日 安息日の礼拝は喜びの時です。では、礼拝から始まる日々の生活の中でどのように神の愛に応えていくのか。ここに分かれ道があります。「無思慮な者は知らず/愚か者にはこれが分かりません。/悪い者が 青草のように萌え出で/不法を行う者が みな花を咲かせても/それは彼らが永久に滅ぼされるためです。」67)一つ目は<悪者>の道、みことばに聞き従わない道です。それでも一時的には豊かになったり成功を収めたりすることはあります。けれども神は「永遠」(8)の神です。終わりの日にはすべてのことが明らかになります。悪者の道は滅びの道です。主が示しておられるのは「正しい者」(12)の道です。神の前に正しい人は一人もいません。「正しい人はその信仰によって生きる」(ハバクク2:4)と語られるように、正しい者とは「正しい方」(15)である主に信頼して従う人です。安息日はどんなときも主に信頼して生きる道を選び取る日です。この道を歩むようにと主は私たちを招いておられます。

 

 

安息日から祝福の道を歩こう 「正しい者」に約束されているのは主の祝福です。どんなときも主に信頼する者を主は祝福してくださるからです。「正しい者は なつめ椰子の木のように萌え出で/レバノンの杉のように育ちます。/彼らは 主の家に植えられ/私たちの神の大庭で花を咲かせます。」12-13)木は自分の意志で生える場所を決めることができません。私たちが「主の家」に植えられた木であるのは、神ご自身が植えてくださったからです。「彼らは年老いてもなお 実を実らせ/青々と生い茂ります。」14)主に信頼する者は「年老いてもなお」神に愛されている子どもとして、主の祝福を味わうことができます。しかも神の祝福は私たちの中だけにとどまることはありません。私たちを通して主の祝福がこの世界に注がれるからです。祝福の道は信仰の道です。この道をともに歩んでいきましょう。