2020年8月16日礼拝

荒野の旅の終わり  ヨシュア記5章10~12節

救いを思い起こす 「イスラエルの子らはギルガルに宿営し、その月の十四日の夕方、エリコの草原で過越のいけにえを献げた。」(10)過ぎ越しは、イスラエルの民がエジプトを脱出した夜を記念する祭りです(出エジプト12:114)。主がエジプトから救い出してくださったことを思い起こすために、イスラエルの民はこの時を祝いました。40年前のこの日、エジプトに最後の災い(初子が打たれる)が下りました。その中をイスラエルの民は出発することになります。主がイスラエルの民に命じられたことは、羊をほふり、血を門柱と鴨居に塗ることです。羊の血を目印に、災いはイスラエルの民を「過ぎ越し」ていきました。イスラエルの民は羊の肉と種を入れないパンを食べ、エジプトを出発しました。そのとき以来、この夜に食べた食事がエジプト脱出の記念の食事となりました。彼らは主が命じられたとおりに、毎年この日の夜に、過ぎ越しを祝う食事をしました。主の救いを思い起こすためです。大人たちには、子どもたちといっしょに過ぎ越しの食事を食べて、過ぎ越しをお祝いすることで、主の救いのすばらしさを子どもたちに伝える役割がありました(出エジプト12:27)。私たちにとっての「過ぎ越し」はイエス・キリストです。イスラエルの民が過ぎ越しの傷のない子羊のいのちによって救われたように、罪のない神の子羊であるイエス・キリストのいのちによって、私たちは罪と死から救われたのです。イエス・キリストの救いを思い起こすときが礼拝であり、聖餐です。私たちは主の十字架と復活を記念して、主が招いてくださる礼拝に集まり、聖餐の食卓を囲みます。そして主の救いのすばらしさを子どもたちに伝えていくのです。

 

 

荒野の祝福 ・「過越のいけにえを献げた翌日、彼らはその地の産物、種なしパンと炒り麦を、その日のうちに食べた。」(11)次の日からは「種なしパンの祭り」(出エジプト12:15-20)の一週間です。この季節、約束の地カナンには、神が用意してくださった大地の実りがありました。彼らはもう荒野ではなく、豊かな大地の実りがある約束の地にいるのです。「マナは、彼らがその地の産物を食べた翌日からやみ、イスラエルの子らがマナを得ることはもうなかった。その年、彼らはカナンの地で収穫した物を食べた。」(12)マナは荒野の旅の間、主が降らせてくださった食べ物です。荒野には食べ物がありません。イスラエルの民はマナを通して、神に信頼することを学びました。マナによって養われてきたのは彼らの身体だけではなく、彼らの信仰でした。荒野の旅もまた、ただ苦しいだけの旅ではなく、主の祝福の中を歩む旅だったのです。私たちの生きる毎日も、日々の歩みが荒野のように思えることもあります。けれども、たとえそのような中でも、荒野もまた主の祝福の場所であることを聖書は教えます。荒野は主ご自身がマナによって養い育ててくださる場所だからです。私たちにとってのマナは神のみことばです(申命8:3)。そのマナがやむ時は、神の国が完成する時です。そのとき私たちは神と顔と顔を合わせて語らうからです。その日が来るときまで、聖書のことばによって、イエス・キリストを通して、聖霊によって、主は毎日神のことばを降らせてくださいます。荒野の旅の終わりまで、私たちはどんなときも毎日のマナである神のことばに養われていくのです。