2023年2月26日礼拝

試みに打ち勝つ力   マタイの福音書6章9~13節

試みはある ・イエスが<主の祈り>を通して教えてくださったことは、ひとことでいうなら、神を愛し、私たちが互いに愛し合う生き方です。けれどもこの世界には、私たちが神を愛し、互いに愛し合う生き方から離れさせようとする悪の力が働いています。「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」13)「試み」は聖書の中では<誘惑>や<試練>を意味します。悪魔は私たちを神から引き離すために甘い誘惑を用いることもあります。いっぽうで、試練は私たちが成長するために必要なことです。だから試練自体は悪いことではないのです。けれども、悪魔は私たちが試練にあうとき、その試練を利用して神から離れさせようとすることもあります。こんなにつらいなら神様を信じても意味がないと思うようになってしまう。弟子たちはここまでイエスについてきました。これからイエスが向かうのは十字架への道です。これまではイエスはみんなの人気者でした。病気を治してくれる救い主、悪霊を追い出してくれる救い主。たくさんの人がイエスのまわりに集まってきた。でも、これからはだんだんとみんながイエスから離れていくようになります。イエスが自分たちの願っていた救い主ではなかったから、指導者たちがイエスを殺す相談を始めるようになるからです。弟子たちにとって、これまではイエスの弟子であることは誇らしいことだったかもしれない。でもこれからは、イエスの弟子であることをやめてしまいそうになる誘惑はどんどん強くなっていくのです。神を信じていれば誘惑や試練にあわなくなるわけではありません。また私たちが試練や誘惑にあうのは決して信仰が足りないからではありません。なぜならイエスも試みにあわれたからです。

 

愛されているゆえの試み イエスは救い主としての働きのはじめに、荒野で悪魔の誘惑を受けられました。それはイエスがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたあとのことです。天の父は洗礼を受けたイエスに、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(マルコ1:11)と呼びかけてくださいました。イエスが荒野で悪魔の誘惑を受けられたのはこのあとでした。イエスは神に愛されている神の子として聖霊とともに荒野に出て行かれたのです。荒野は食べ物のない場所、危険の多い場所、旧約のモーセの時代のイスラエルの民にとって荒野は試みの場所でした。恐れの中で神から離れ、他の神々を拝むようになる誘惑が荒野にはありました。そして民は荒野の誘惑に負けてしまいました。けれども、イエスは荒野で悪魔の誘惑に打ち勝ってくださいました。そこには聖霊の守りと神のみことばの約束があったからです。弟子たちも、私たちもまた、また、神に愛されている神の子どもゆえの悪魔の試みに会います。神から離れてしまう誘惑、神が望まれる生き方から離れてしまう誘惑、教会から、信仰から離れてしまう誘惑です。荒野のイスラエルの民のように罪の性質があり弱さがあります。だから自分ひとりの力では誘惑に打ち勝つことができません。そしてこの祈りは「私たち」の祈り、教会の祈りです。教会も神に愛されているゆえの悪魔の試みを受けます。けれどもイエスが教えてくださったように、天の父は、どんな試みからも私たちを救い出してくださる方です。試みに打ち勝つ力は主から与えられます。だから私たちは心合わせて、主に信頼して祈ることができるのです。