2023年1月29日礼拝

わたしを信じなさい   ヨハネの福音書14章1~6節

永遠の父の家 ・最後の食事の後、イエスが弟子たちに告げたのは、弟子の一人の裏切りと、イエスが弟子たちのもとを去っていくことです。弟子たちの間には大きな動揺が広がったでしょう。そんな弟子たちにイエスは言われます。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(1)1節これまで弟子たちはイエスについて行けば何があっても大丈夫だと思って歩んできました。でもどうして今、いなくなってしまうイエスを信じることができるでしょうか。けれどもイエスは何の根拠もなく信じなさいと言われたのではありません。イエスが弟子たちのもとを去っていくことは、もっとすばらしいことが起こるためだからです。「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(2-3)イエスは弟子たちのために「場所を用意」するといわれました。天の父と弟子たちがいっしょにいられるようにするということです。そのためにイエスがなさることは、十字架で死ぬことです。弟子たちにはイエスを裏切り、イエスを知らないと言ってしまう罪があります。私たちにも罪があります。だから天の父に近づくことができません。私たちが天の父に近づき、天の父とともに生きるためにイエスがしてくださったこと、それが十字架で死ぬことでした。イエスはこれから弟子たちのもとを去っていきます。苦しみを受け、十字架で死なれます。けれどもそれは弟子たちにとって、私たちにとってよいことです。イエスによって、私たちが永遠に神とともに住むことができる道が開かれたからです。

 

イエスこそが道 ・「わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」(4)弟子たちは、イエスが地上の遠く離れた場所に行ってしまうと思っています。けれどもイエスが言われた道とはどこかの場所のことではありません。天の父へ続く道です。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(6)ここに使われているのは<わたしはある>、旧約では「主」と訳される神の名前です。イエスはご自分が神であることをはっきり弟子たちに示されたのです。天の父への道はどこかにあるのではなく、神であるイエスご自身です。そして神の「真理」、永遠の神の「いのち」はイエスのうちにあります。天の父へと続く道はイエスの十字架とよみがえりです。イエスの十字架による罪の赦しこそが、罪ある人間が天の父に近づくただひとつの道です。永遠に神とともに住む道がイエスの十字架によって開かれました。私たちは永遠に神とともに住む祝福を完全に味わうのは終わりの日です。同時に、聖霊によって神は今私たちの中に住んでくださいます。イエスの十字架で死なれ、死からよみがえられました。それは私たちが神との交わりに生きるためです。心騒ぐこと、信じられなくなることはこの世界にも私たちの毎日の生活の中にもあります。けれども私たちには十字架に架かり、死からよみがえられたイエスがおられます。イエスによって、神は私たちとともにおられます。だからどんなときもイエスに信頼できるのです。