2022年5月29日礼拝

キリストこそ私たちの望み  ローマ人への手紙 8章22~25節
「すでに」と「いまだ」の間の苦しみ 神がおられるなら、なぜこの世界に苦しみがあるのでしょうか。聖書を通して苦しみの問題を考えるとき、避けて通れないことは、人間は神の前に罪ある者となったこと、神は罪に対して怒りを燃やされ、罪をさばかれる方であることです。「私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。」(22)戦争、飢餓や貧困、疫病もみな、罪の影響のもとにあるこの世界のうめきであり苦しみです。さらに罪の影響はすべての被造物に及んでいます。イエス・キリストがしてくださったことは、この世界のうめきと苦しみの源である私たち人間の罪を背負うことでした。「それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。」(23)イエス・キリストを信じるとは、十字架で苦しまれたキリストと一つに結ばれることです。だからクリスチャンにも苦しみがあります。クリスチャン特有の苦しみは罪との戦いです。クリスチャンは愛されている罪人です。クリスチャンであるとは、罪と滅びから「すでに」救われて神の子どもとされていることですが、救いは「いまだ」完成したわけではありません。だから自分自身の古い罪の性質との戦いがあります。神の民の苦しみとは「すでに」と「いまだ」のはざまにいる苦しみです。

 

望みとは ・苦しみの中にあるとき、助けや慰め以上に、私たちに一番必要なものは「望み」です。「私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか。」(24)聖書が語る望みは個人的な願いや望んでいる結果のことではありません。望みは神が私たちに与えてくださるものです。聖書が語る望みはイエス・キリストの望みです。苦しみはあります。でも望みもすでに私たちの中にあります。キリストがもう一度こられるからです。イエス・キリストがもう一度こられるとき、私たちは死ぬことのないからだによって復活します。なぜなら復活の主イエスと結ばれているからです。キリストがもう一度この地上に来られ、私たちのからだを贖ってくださるとき、私たちはキリストの姿に完全に変えられます。

 

ただ主だけを待ち望め 「私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。」(25)見ていないものを待ち望むこと、口で言うのは簡単ですが、それは私たちの努力だけでできることではありません。忍耐が必要です。けれども忍耐とは自分だけでがんばることではありません。キリストにとどまること。ただ主イエス・キリストだけを待ち望むことです。さらに、忍耐は苦しみを通して神が私たちの中に生み出してくださるものです(ローマ5:2ー5)私たちの望みはイエス・キリストです。イエス・キリストが来られる。救いを完成してくださる。失望に終わることがない望みがもうすでに私たちには与えられています。だからただ主だけを待ち望み、今を生きるのです。