2023年3月26日礼拝

イエスの平安         ヨハネの福音書14章27~31節

私たちにはイエスの平安がある 来週から新しい歩みが始まります。不安や恐れがないわけではありません。イエスが去って行かれる時の弟子たちにも恐れと不安がありました。弟子たちにイエスが最後に残されたのは平安です。「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」27)イエスは<わたしの平安>と言われます。当時の社会では平安とは<ローマの平和>、つまり強い軍事力によって争いや反乱が起こらないようにする平和、富と力によって得られる安全と安心、いつかはなくなる一時的、表面的な平安です。それに対して、イエスが与えてくださる平安は私たちを心の底から満たす平安、永遠に続く平安です。

 

危険や苦しみの中でも消えない平安 イエスは一人の人として、十字架を前に恐れも不安も味わわれました。けれども、どんなときもイエスのうちには平安がありました。十字架は十字架では終わるのではなく、天の父へ続く道だからです。「『わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたがたは喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。今わたしは、それが起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったとき、あなたがたが信じるためです。」(28-29イエスは天の父と一つである神ご自身でありながら、人として生まれ、人として生き、十字架に架かられました。それは偉大な天の父に従われた道です。私たちにとっても、十字架は天の父へのただ一つの道です。私たちが味わう苦しみはイエスの十字架とつながっています。十字架の苦しみの中でも、イエスのうちには父と一つである平安がありました。イエスがくださる平安は、危険や苦しみの中でも私たちの中から消えることはありません。

 

 

悪にも打ち勝つ平安 ・「わたしはもう、あなたがたに多くを話しません。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることができません。それは、わたしが父を愛していて、父が命じられたとおりに行っていることを、世が知るためです。」30-31)<この世を支配する者>は神に敵対し私たちを神から引き離そうとする悪魔です。救い主の働きを始められた時から、悪魔はイエスの救い主としての働きをやめさせようとしました。その最後の戦いが十字架です。イエスはユダの手で指導者たちに引き渡されます。けれども十字架は悪の力への敗北ではありません。罪と死と悪魔の力への勝利です。十字架はイエスが天の父への愛のゆえに、父のみこころに完全に従い、悪魔に勝利されたことを世が知るための勝利のしるしです。ここに私たちの罪と死からの救いの確かさがあります。「立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」31)このあと弟子たちは逃げてしまいます。けれども死からよみがえられた主イエスがもう一度弟子たちを立ち上がらせてくださいます。私たちも今日ここから、主イエスとともに新たな歩みを始めます。どこにいても、私たちのために十字架にかかり、死からよみがえられた主イエスがともにおられます。イエスがともに歩んでくださるから、私たちには永遠の平安があるのです。