2022年11月13日礼拝
私を見つめるまなざし エズラ記9章
神を知ることで、自分自身を見る見方はどう変わるのでしょうか?
聖なる種族 エルサレムエズラが見たのは、みことばに従って歩んではいないユダヤ人たちの姿でした。「イスラエルの民、祭司、レビ人は(…)異国の忌み嫌うべき習慣と縁を絶つことなく、かえって、彼らも息子たちも、これらの国々の娘を妻にし、聖なる種族がもろもろの地の民と混じり合ってしまいました」(1-2)彼らは結婚によって他の民族と混じり合っていたのです。イスラエルの民は、神によって特別に選ばれた聖なる民です。彼らが優れていたからでも数が多かったからでもなく、ただ神の一方的な愛によるものでした(申命記7:7-8)。他の民族の人々との結婚の禁止は、もともとはモーセの時代のイスラエルの民に主が命じられたことでした(申命記7:3)。他の民族は必ず他の神々を拝んでいます。結婚を通して彼らと深く関わるようになれば、イスラエルの民は他の民族の不道徳や汚れに染まってしまうのは目に見えていたからです。神の民のなかには罪の現実があります。私たちもこの世界で神抜きの価値観に囲まれて生きているからです。聖なる種族、神に愛されている宝の民とされていることをいつも忘れずにいましょう。
主は正しくあわれみ深い方 「私はこのことを聞いて、衣と上着を引き裂き、髪の毛とひげを引き抜き、茫然として座り込んでしまった」(4)ユダヤ人たちの罪の現実を前に、エズラの悲しみ、怒りはどれほどのものだったことでしょうか。エズラは打ちのめされて夕方まで座り込んだのち、主に祈りの声を上げました。「私たちの先祖の時代から今日まで、私たちは大きな罪過の中にありました」(7)イスラエルの民の歴史は罪の歴史であると同時に主のあわれみの歴史でです。イスラエルの民がバビロンに捕らえ移されたことは、イスラエルの民の背きの罪に対する主のさばきでした。主は正しい方であり、罪を正しくさばかれる方です。同時に、神はあわれみ深い方です。「しかし今、しばらくの間、私たちの神、主はそのあわれみによって、私たちに逃れの者を残し、」主はイスラエルの民を捕囚から解放してくださいました。主は正しい方、そしてあわれみ深い方です。だから主イエスは私たちのために十字架に架かられたのです。
主に立ち返ろう 「私たちは再びあなたの命令を破って、忌み嫌うべき行いをするこれらの民と、姻戚関係に入ってよいのでしょうか」(14)イスラエルの民にできることは、主のあわれみにより頼み、主に立ち返ることだけです。「イスラエルの神、主よ、あなたは正しい方です。まことに、今日あるとおり、私たちは逃れの者として残されています」(15) 神から離れ、自分を神とし、この世を神としようとする私を、それでも主はあわれみ、生かしてくださるのです。正しい方、あわれみ深い方である主が、私たちを聖なる種族、愛する宝の民として見ていてくださいます。主に立ち返ることは、私を見つめておられる主のまなざしに立ち返ることです。みことばの光に照らされて、そこに歪んだ道や曲がった道が見えるなら、主に立ち返りましょう。そこにもう一度聖なる民として生きる道、私たちが歩むただ一つの道があるからです。