2023年1月22日礼拝
赦されたから赦します マタイの福音書6章9~13節
私の罪を赦される天の父 ・「私たちの負い目をお赦しください」(12)。イエスが弟子たちに教えられたことはまず、天の父は私たちの罪を赦してくださる方だということです。「負い目」とは負債、借金のこと。神の前に立つとき、私は罪ある一人の人間です。私は思い・ことば・行いで、するべきではないことをします。本来言うべきことを言わず、するべきことをしなかったりします。それは毎日神の前に借金を積み重ねているようなものです。これは当時のユダヤ人教師も教えていたことでした。彼らの教えは<あなたがたには大きな負債があるのだから、よい行いによって罪滅ぼしをしなければいけない>ということでした。でも、よい行いで神に罪滅ぼしをすることなどできないのです。 ・イエスが弟子たちに示されたのは罪滅ぼしの方法ではなく罪の赦しです。罪の赦しはは私たちと神との関係の回復です。私は神の前に罪を重ねることによって、神との関係を壊しています。けれども、天の父は私たちが罪を言い表すとき、罪を赦してくださるお方です。それは私が壊してしまった神との関係を回復してくださるということです。罪の赦しは神の贈り物、神の恵みです。 ・赦すことは簡単なことではありません。天の父にとっても罪を赦すことは痛みをともなうことです。私たちが神との関係を回復するために神は人となり、罪のない方が、罪ある人間の中で生きられました。イエスは天の父との私たちの関係を回復するために十字架で死なれました。クリスチャンは罪赦された人です。けれども、クリスチャンになったあとも人は罪を犯します。その罪が赦されるとは、私たちの犯す罪によって、神と私たちが完全に引き離されてしまうことはないということです。だから罪をお赦しください。私の神としてともに歩んでくださいと祈ることができるのです。 ・さらに、この祈りは「私たち」の祈りです。この世界には個人的な罪だけではなく、多くの罪があるからです。民族の罪、国家の罪があり、世界的な罪があります。イエスはすべての罪を十字架の上で背負われました。だから私たちも自分と同時に、世界の罪のためにもとりなし祈ります。
私も赦す人に ・「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」(13)。誰かが私に対し私にひどいことをした。怒りを覚えたり赦せないと思うのは当然です。赦すことは簡単なことではありません。 ・礼拝の文語訳<我らに罪をおかす者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ>は、まず私が赦すことが先にあるように思えます。けれどもイエスが教えられたことはそうではありません。私たちは自分の力で人を赦すことなどできないからです。赦せない私がいます。その私がまた神の前に罪を犯します。にもかかわらず、天の父が私を赦してくださる。罪の赦しの恵みを知ってはじめて、私が誰かを赦す道が始まります。赦すから赦されるのではなく、赦されるから赦せるようになるのです。すぐにではありません。それには時間がかかります。 ・天の父はイエスの十字架ゆえに、赦せない私を大きな愛で赦してくださいました。私も少しずつ赦す人に変えられていくためです。赦せない私が赦すことができる私に、愛せない私が愛する私に変えられていくこと。そのために、今日も私たちは「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」とともに祈るのです。