2020年6月7日礼拝

 私たちの生き方を変えるのは   テトスへの手紙3章3~7節

神は罪人の私を愛された ・テトスへの手紙3章でパウロが語るのは、クリスチャンの生き方が以前の生き方から変えられるために神が何をしてくださったかです。「私たちも以前は、愚かで、不従順で、迷っていた者であり、いろいろな欲望と快楽の奴隷になり、悪意とねたみのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合う者でした。」(3)神は私たち一人一人を愛しておられます。けれども、人は生まれながらの罪によって、神を知ろうとせず、神に従おうとせず、神が望まれる道から離れていきます。その結果が、欲望と快楽の奴隷、悪意とねたみ、憎しみです。「しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、」(4)神は罪の中にいる私たちにいつくしみと愛を示してくださいました。神を知ろうとしない私たちが神を知ることができるように、神は私たちと同じひとりの人となられました。神に従おうとせず、欲望と悪い思いに従おうとする私たちの身代わりに、キリストは十字架で死なれました。そして神が望まれる道をもう一度歩み始めることができるように、キリストはよみがえられました。

 

聖霊は私を新しく生まれさせる ・神の愛は私たちを甘やかしてそのままにしておく愛ではありません。聖霊によって造り変える愛です。「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。」(5)水がからだを洗いきよめるのとおなじように、聖霊は私たちを罪から洗いきよめ、新しく生まれさせる霊です(ヨハネ3:5)イエスの十字架の血は私たちのすべての罪を赦し、罪から洗いきよめます。私たちが行ったよい行いによってではなく、神のあわれみによってです。「神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。」(6)イエスの十字架と復活の恵みは、聖霊によって私たちに注がれます。洗礼の水は聖霊によって罪からきよめられたことの目に見えるしるしです。

 

聖霊によって新しくされる目的 ・「それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みを抱く相続人となるためでした。」(7)聖霊によって新しくされた人は「相続人」である神の子どもです。目指すのは神の子どもとしてふさわしく生きる生き方です。そのためには努力も必要ですが、努力の源にあるのが義務感や不安なら窮屈な生き方になります。そうではなく、神の子どもとされたことが喜びだから、神が望まれることを求めるようになる。これが、聖霊が助けてくださる新しい自由な生き方です。旧約のイスラエルの民は神とともに生きる約束の地を相続しましたが、荒野の旅の中でも、神とともに生きる祝福を前もって味わうことができました。同じように、永遠のいのちを相続した私たちも、神とともに生きる永遠のいのちをこの地上で前もって味わうことができるのです。この喜びを味わわせてくださるのが聖霊です。罪の支配から解放され、愛し愛される者へと変えられていく。神の子どもとして、造り変えられ続け、新しくされ続ける歩みを、聖霊はともに歩んでくださるのです。